『消えた、天然の、オイシサ』


<お仕事で書いた文章>

『少年育成』№583(2004年10月号:p8-13)に掲載済み。

だいぶ前に、ミクシにも載せたけど
せっかくだから、ブログにも。

以下、ミクシ掲載時の説明書きからの引用。


・・・大阪の少年補導協会なるところから、
若者たちの「言葉」のなかで、
大人が意味を誤解しているものについて、
分かりやすく説明してくださいとの依頼がきた。


依頼時のニュアンスからすると、
若者側の味方に立った文章が欲しそうな感じだったが、
実存的に、若者とオヤジの狭間の世代である以上、
なかなかこれが難しい。


どっちにも味方できないんだよね〜、心情的に。


で、苦し紛れにどうにか書いたわけだが、
難しいなあ〜。


とりあえず、オヤジがメインターゲットの雑誌らしいので、
若者を批判する素振りを見せておいて、
その実、オヤジを批判している文章にしてみたのだが、
果たして、読者には伝わるものやら…。




====以下、文章=====================

『消えた、天然の、オイシサ〜ケータイ以降の若者対人コミュニケーション事情』



●養殖育ちの若者たち
 この文章のタイトルをご覧になって、多くの方は、「そういえば、最近は養殖ものばかりで、天然ものは減ってしまったなあ」と思われるかもしれない。しかし残念ながら(?)、今から述べるのは、魚介類ではなく、若者の話だ。特に、ケータイの普及と彼らの対人コミュニケーション事情の関係に焦点を当てる。
 だが、魚と若者にも共通点がある。当たり前といえば当たり前だが、養殖する時、うなぎならうなぎだけ、鯛なら鯛だけを飼うことが多い。そうした、同類だけの生簀の中で純粋培養されている姿は、実は今日の若者たちと大きく重なる部分があるのだ。 
 しばしば、ニュースにもなるように、養殖ものは打たれ弱い。些細な環境の変化によって、全滅に近い被害が出ることもある。では一体、今日の若者たちは、どのようにして“養殖育ち”になったのだろうか。
 

●若者たちの言葉を理解せよ!
 こうした変化を理解するには、若者たちの言葉に耳を傾けなければならない。それも、大人からすると一見理解不可能であっても、彼らにとって日常的な言葉の理解こそが重要だ。
 実は、タイトルにある、「消す」「天然」「オイシイ」は、いずれも若者特有の言葉である。正確に言うなら、一つ目の「消す」が最近よく使われるようになった言葉、残りの「天然」「オイシイ」が逆にあまり使われなくなりつつある言葉だ。さらに言うなら、これら3つの言葉は、近年におけるケータイなどのメディアの発達と、それに伴う若者たちの対人コミュニケーションの変化を理解する上で、必須のキーワードなのだ。
 辞書的な意味を述べるなら、「消す」はケータイのメモリー機能の中に登録した、相手の連絡先(ケータイ番号やメールアドレス)を消去すること。「天然」とは、その場の雰囲気に不適切な言動をして、まわりからしばしば失笑をかいやすいキャラクターのこと、そして「オイシイ」は、本来失笑を買うことは屈辱的であったはずが、一つ引いた視点から、「笑いを取れたのでいい」と肯定的に状況を捉えなおすことをそれぞれ意味する。しかし、これだけでは、まだこれらの言葉を十二分に理解したとは言いがたい。
 そもそも、どのようにして、「消す」が使われる一方で、「天然」や「オイシイ」は使われなくなっていったのか。その背景にある、社会的な変化も含めて考えよう。


●消す=別れる
 「消す」という言葉は、サスペンスドラマ好きの人なら、「殺す」という意味のスラングとして、理解するかもしれない。それはややオーバーだしても、今日の若者にとって、「消す」ということは、それなりに大きな意味を持つ。それは、人と「別れる」ということと同義なのだ。恋愛ドラマでも、相手に「さよなら」と告げる代わりに、メモリーから連絡先  「消す」瞬間が、別れのハイライトシーンとして登場するようになった。
こうした状況を、私は「引き算の関係」と呼んでいる。すなわちこれまでは、例えば同じ部活動の中で、徐々に仲のよい友人が増えていくような、いわば「足し算の関係」だったわけだが、部活動などが停滞していく中で、友人を作るにも工夫が必要になってきた。つまり、新学期やクラス替えなどの時、まずするのは、ケータイの番号やメールアドレスを収集しまくるということであり、そこから徐々に疎遠になった相手を「消して」いくのだ。こうした 「引き算」の関係の特徴は、友人の人数が多くなる一方で種類が減る、ということである。
 かつて「♪ともだち100人できるかな」という歌があったが、それはすでに現実のものとなっている。私がインタビュー調査をした中でも、新入生歓迎会のときに、ケータイの番号とメールアドレスを集めまくって、それが100件に達したときに「やった!ともだち100人できた!」と叫んだという大学生がいた。あるいは、アンケート調査などで「友人は何人ですか?」という質問にも、指折り数えるのではなく、“100人”だとか“200人”といった妙にキリのいい数字で答える傾向が指摘されている(おそらく、ケータイのメモリーを見て答えているのであろう)。
 そして、その一方で起こっている、種類の減少という点は、ケータイメモリーの内容を分析するとよくわかる。
 私が開発した手法なのだが、ケータイのメモリーに登録されている一人一人について、「どこで知り合ったか?」「性別・年齢は?」などといったことを尋ねて結果を集計してみると、その若者の対人コミュニケーションの実態が明快に浮かび上がる。全般的な傾向としていえるのは、同質性が高いということだ。
 つまり、同性で同年齢、さらに「一緒にいると安心する」といった、気の合う似たもの同士の割合が高く、異性や年上、年下、あるいは「尊敬できる」「ライバルである」といった、自分とは異質なものの割合は低い。
 つまり、人数は多くても、仲良くしている友人のタイプは実に限られているのだ。(なお、ケータイメモリーの調査手法などについては、以下の拙論をご参照いただきたい。辻泉,2003,「携帯電話を元にした拡大パーソナル・ネットワーク調査の試み―若者の友人関係を中心に」『社会情報学研究』7号:p97-111.第2回日本社会情報学会学会賞受賞論文)
 

●天然のオイシサ=異文化コミュニケーションおよび自己客観視能力
 さて、こうした「引き算の関係」は、ちょうど現在の大学生より下の世代に見られる特徴だ。彼らは、友人関係を盛んに形成する高校生の段階で、すでにケータイが普及していた世代である。因みに私は、大学の段階でケータイが普及し始めた世代なのだが、そのころと比べて、徐々に耳にしなくなったのが、「天然」と「オイシイ」という言葉である。
 ここで重要なのは、こうした変化を、心理学的にではなく社会学的に捉えなければならないということだ。例えば「天然」について言えば、先に辞書的な意味を説明したが、場の雰囲気をわきまえられないのは、性格に異常をきたした人間がその時だけ増加したからというよりも、むしろ、細分化された若者文化同士の、“異文化コミュニケーション”が起こっていたからだと捉えたほうがよい。
 1985年に博報堂が『「分衆」の誕生』という本を出して以降、特に若者文化は、アイドルファン、お笑いファン、ロックバンドファンなどなどと激しく細分化した。しかし、その一方で、細分化されたもの同士での、異文化コミュニケーションの「オイシサ」を売りにしたテレビ番組も登場した。例えば、一昔前まで“かっこいい”アイドルが、コントで“笑いもの”になることなどありえなかったが、『SMAP×SMAP』(FNN系列)などは、それを売りとして登場した。
 そしてそれを見ていた若者たちも、一つ引いた目から自分を客観視することを学習し、「○○くんって、なんで突然、そんなこと言ったりするの〜?ほんっと、『天然』だよね〜」と言われても、それを「もしかして、今、オレって『オイシイ』?」と肯定的に捉え返すような異文化コミュニケーションが成立したのである。
 しかしながら、こうした「天然」の「オイシサ」は、ケータイ普及以降の「引き算の関係」の中で、徐々にメモリーから「消さ」れつつある。


●自ら生簀にひきこもる若者たち
 「引き算の関係」で特徴的なのは、それが無意識のうちになされているということだ。調査をしていると、「消す」タイミングは、ケータイの機種を変更してメモリーを整理した時とか、変更したメールアドレスを通知してもメールが返ってこなかった時などが代表的だ。 つまり、相手が嫌いだからというよりも、なんとなくたまたま、ということが多いようだ。しかしいずれにせよ、結果としてメモリーに残るのは、同質性の高い友人ばかりとなる。
 これは、冒頭の喩えに倣えば、魚たちが自ら、同類同士で生簀の中に入っていくような状況だ。そして、異質な出会いに慣れていないと、突然の環境の変化に対応できず、結果として、打たれ弱い“養殖もの”の若者たちが増えてしまうことにもなりかねない。


●今、何が必要か
 では、今、何が必要だろうか。繰り返せば、一見理解不可能であっても、じっくりと若者の日常の言動に耳を貸すことだろう。大人もまた、若者に対する理解を、頭のメモリーから無意識のうちに「消す」ようなことがあってはならない。
 そして、時には自らの失敗談を交えながら知恵を貸してはどうだろうか。例えば、ケータイであれば、それを一方的に否定するのではなく、彼らの耳に届くような言葉に直した上で、そのよい面と悪い面を両方伝えて、一緒になって考えるような機会を設けてはいかがだろうか。
 もちろん、異文化コミュニケーションとなる以上、「何で、そんなこと言うの〜?オジサンって、もしかして『天然』?」などと言う若者が(もしもまだ)居たら、むしろ「オイシイ」ものとして捉え返してみてはいかがだろうか。
 昨今では、事件が起きるたびに、ケータイや若者に対する一方的な批判と無理解がまかりとおりがちだ。しかし、ケータイといっても、元はただの金属とプラスチックの塊だ。いわば、単なる道具に過ぎないのだから、要は“使われてしまう”のではなく“使いこなす”ための工夫さえあればよい。
 無意識のうちに「引き算の関係」にならないよう、気をつけてさえいれば、多様な関係を作る上で、ケータイほど便利な道具もないはずだ。 (以上)