『ケンカの変容〜「引き算の関係」がもたらしたもの』

<お仕事で書いた文章>

・・・ちなみに、以下の紹介文も含めて、
ミクシにアップしたものを再掲。
(ミクシから、直接ブログに飛ぶようにする人もいるけど、
あれは好きじゃないので、わざわざ面倒くさいけど、こうしてみた。)




『少年育成』誌からの依頼で書いたもの(掲載予定)。
「ケンカの効用」なる特集に即した文章にしてくれとの事。


でも、悩むんだよね〜。

パッチギ!』みたいに、
やっぱり分かり合うまで殴り合おうぜ!みたいな主張も
明快でいいのだけれども、
(もちろん『パッチギ!』はそれだけの映画じゃないですけど)
なんだか、いちおうまだ20代としては、そこまでオヤジっぽい文章もかけないのが、往生際の悪いところ。


かといって、若者にももはや感情移入できないしな〜という
微妙なお年頃。


結局、無難な「ガクシャせんせい」っぽい文章になっちゃった。


だ〜っ、言いたい放題言えるメディアがほしいのう。




===以下、原稿======


『ケンカの変容〜「引き算の関係」がもたらしたもの*1


●ケンカの喪失?
 今の若者はケンカをしないという。これは良いことだろうか、悪いことだろうか。
 それ以前に、そもそもなぜ若者はケンカをしなくなったのか。本論は、その背景を社会学的に分析することが目的だ。
 若者現象について、多くの大人は「喪失論」を語りたがる。自分たちが若者であったころと比較して、かつてあったものが、失われつつあるのだと語りたがる。ケンカについても、殴りあいをするまで深く分かり合ったものが、今ではケンカすらしないほどに、人間関係が希薄化してしまったのだと語られる。
 だが、これには少し注意が必要だ。変化の激しいこの社会では、現在の大人が若者であったころとは大きく状況が異なる。過去にあったものは一方的に失われていくだけではなく、何か別のものに置き換わっている可能性がある。


●「大人の目」を横に置いて理解しよう
 さしあたって重要なのは、良いか悪いかの判断をいったん横に置き、背景を冷静に分析することだ。現状を一方的な「喪失論」で語ることがないよう、無意識のうちに「大人の目」にならないよう注意することが必要だ。
 また、若者現象は思うほどに単純ではない。ケンカを好む若者が減ったからだとかいうような、心理学的な理解だけでは不十分だ。
 結論を先取りすれば、むしろ「ケンカをしないですむ」ように社会が変化したといったほうが妥当だ。では、そうした変化は、どのようにもたらされたのだろうか。


●「友人」とは、ケンカをしないもの
 ここでいくつかの調査結果を紹介したい。2002年に青少年研究会が実施した調査によれば、親友がいる若者のうち、その親友と「ケンカをしても仲直りできる」と答えたものは、50.6%とわずかに半数を超えただけであった(詳細は、『みんなぼっちの世界2(仮)』恒星社厚生閣から近刊)。
 重要なのはこの結果の解釈である。ともすると残り半数の若者は、ケンカをしたら仲直りできないほど、友人づきあいが下手なのかと思ってしまう。しかし、今の若者にとって、友人とはそもそもケンカをしない存在のようだ。
 その裏づけとして、友人への満足度に関する、ここ30年ほどの変化をみよう。1977〜78年にかけて行われた第2回世界青年意識調査において、友人関係に「満足」していると答えた若者は41.6%であった。だが、この割合は年々上昇する。2003年の第7回調査で「満足」と答えたものは72.0%と多数を占めるようになり、同年「やや満足」と答えた26.1%を加えると、合計で98.1%にも達する。
 ここで「大人の目」からすれば、この数値は異様に高く感じてしまう。別な言い方をすれば、友人にはいいところと同様に嫌なところもあり、いい奴と同様に嫌な奴もいるのではないのかと思ってしまう。しかし今や、多くの若者にとって友人とは、自分と似て気が合い満足ばかりを与えてくれる存在なのだ。
 さきほどと同様の2002年青少年研究会調査の質問で、親友と「一緒にいると楽しい」「親しみを感じる」と答えた若者は、それぞれ82.3%に70.1%と多数を占めた。だが、自分と異なった部分を持つ親友を「ライバルだと思う」と答えたのは22.7%、「親友のような考え方や生き方をしてみたい」と答えたのは14.4%とそれぞれ半数にも満たなかった。これらの結果からもそれがわかる。


●「引き算の関係」をもたらしたもの
 では、どのようにして、友人は似通う気の合ったものばかりになったのだろうか。これは、筆者の言葉で言えば、「引き算の関係」が主流化したことによる。「引き算の関係」は、それ以前の「足し算の関係」と違った友人関係だ。
 かつて友人は、同じクラスや部活動といったある特定の集団の範囲内で、徐々に増えていった。範囲が制限されていたため、多少気の合わないものでも我慢して友人に加えたのが「足し算の関係」の特徴だ。しかし学級崩壊や部活動の停滞といった現象からわかるように、これらの集団の拘束力は次第に失われる。
 結果、若者の友人関係は大きく流動化した。別な言い方をすれば、「同じクラス(部活)なんだから仲良くしなさい」という先生の言葉はなんらの説得力を持たなくなり、我慢をする必要がなくなった。だがその代わりに、実に雑多な同世代から、自分自身の手で気の合う相手を探し出さねばならなくなったのだ。筆者は、これを「友人関係の自由市場化」と呼んでいる。つまり、友人関係がうまくいくのもいかないのも、すべて個々の若者しだいになったのだ。
 携帯電話が1990年代後半に爆発的に普及したのも、ちょうど「友人関係の自由市場化」で、その形成や管理に便利だったからである。そして、この時代にこそ、「引き算の関係」が主硫化する。
 まず、雑多な相手の連絡先を、できるだけ多く携帯電話の電話帳機能(メモリー)に登録する。その後、疎遠になったもの、気の合わなくなったものの連絡先を徐々に消去する。よって、気の合う似通ったものばかりが残る。さらに、携帯電話の電話帳機能は何百件でも登録できる。その結果、友人の人数は増えるが、一方でその種類が減るのが「引き算の関係」の特徴だ。


●「引き算の関係」の良い点
 こうした「引き算の関係」の良さは、何よりもその居心地である。本筋に戻せば、なにしろケンカになる可能性は、できる限り消去されている。それどころか友人の人数は増え、かつ気の合うものばかりであるがゆえ、満足度も高まっている。これは、関係の希薄化とは異なる。
 むしろ今の若者は、こうした居心地の良い関係を持つスキルに、実に長けている。特に重要なのは、趣味やファッションへの敏感さだ。それも、最新の流行を知っているということより、同類を探し出す観察眼の鋭さだ。
 「足し算の関係」では、相手の好みに今ほど敏感ではなかった。ある一定の範囲内で友人ができるわけであり、こうした好みに関する会話は、どちらかといえば親しくなった後で、世間話程度にするものだった。
 しかし、「引き算の関係」においては重要になる。実に雑多な相手から探し出す以上、こうした会話は、親しくなっていく段階で、気の合うものとそうでないものとを見分ける大事な手がかりとなる。そのことで、いわば適切な棲み分けができるのだ。
 この点、以下のようなアイドルファンの女子高生たちの例は興味深い。彼女たちは、多くの相手に対して「芸能人では誰が好き?」という問いかけを繰り返した後、ようやくロックバンドでもお笑いタレントでもない、アイドルのファンを見つけ出すという。
 だがさらに興味深いのは、それと同時に、自分とまったく同じアイドルのファンは避けるということだ。つまり、アイドルが好きなもの同士でも、お互いがケンカになる可能性を避けるのだ(例えば、SMAPというアイドルグループで言えば、中居君のファンが、それ以外のメンバーのファンを探そうとするということだ)。
 そして、たくさんの友人の連絡先や名前を登録したり消去したり、携帯電話の機能をフル活用する。これもまたスキルの一つだ。
 

●「引き算の関係」の悪い点
 しかし、「引き算の関係」にも心配すべき点がある。いわば、打たれ弱さだ。居心地の良さに慣れ過ぎると、気の合わないものに上手に対処できなくなる可能性がある。
 先のアイドルファンの例で言えば、上手に避けたつもりでも、まれに親しい友人が何かのきっかけで、自分と同じアイドルを好きになることがある。だが、彼女らはそれでも直接のケンカを避ける。例えばこの場合、あることないこと悪いうわさを書き連ねた「怪文書」や「怪メール」を回し、相手がアイドルファンを続けられないようにしてしまうという。彼女らの言葉で言えば、相手を「潰す」のだ。
 確かにこれは極端な例かもしれない。だが、気の合わない相手に、正面から対等に関係調整を図るのではなく、そもそも関係自体を消去してしまう傾向は、「引き算の関係」に共通する特徴だ。「怪文書」や「怪メール」を回さずとも、気の合わなくなった相手は、親指一つで消去できる。携帯電話からその連絡先を消去すればよいのだ。
 一言で言えば、「引き算の関係」では、ケンカのかわりにシカトをするのだ。つまり、ケンカは失われたのではなく、シカトへと変容したのだ。だが、これだけ変化の激しい社会では、いずれシカトだけでは対応できないことも起こるかもしれない。


●これからどうすればよいのか
 まとめよう。確かに今の若者はケンカをしない。だがそれは、単にケンカを好む若者が減ったからだというような、心理学的な変化ではなかった。むしろ、「足し算」から「引き算」へと友人関係が大きく変化する、一つの表れであったのだ。
 よって、若者に対して「時にはケンカも必要だよ。我々のころはねえ・・・」と大人が説くことはあまり意味がない。そもそも、当時とは友人関係のありようが根本的に異なっている。
最終的には「足し算の関係」と「引き算の関係」のどちらがベターかという選択になろう。両者の得失を比較した上で、あえてどちらかを選ぶということになる。
 もちろん前者の復活を望むことも可能だ。だが、社会全体の変化を巻き戻すような大きな覚悟が求められるように思われる。
 であれば、筆者個人としては、むしろ「引き算の関係」を、よりマシなものにしていくほうが現実的ではないかと思う。 
 すでに述べたように、「引き算の関係」は新たな社会変化に適応しようとするスキルに基づく。そうしたスキルを大いに伸ばしつつ、と同時に、気の合わない異質な他者へも対応できるような対策を、考えていくことが課題である。
 (以上)

*1:掲載前、かつ校正前なので、掲載されたら本誌をご参照くださいませ。