「時に新聞は孤高のメディアたれ」

<お仕事で書いた文章>

空前の与党圧勝で終わった総選挙の結果に関する感想を書いた文章。

小泉首相のメディア戦略は、
注目の的だけれど、それが効果をあげるのは、
単にマスメディアの影響が強いからというよりも、
受け手の社会心理状況にかなり依存しているという点を指摘してみた。

というのも、

「だから、小泉の言いなりになるマスメディアが悪い」

といった物言いにうんざりしてきたから。


その物言いは半分は正しいのだけれど、
一方で、受け手である自分たちにも応分の責任のあることを
すっかり棚上げしている。

ストレス発散のためのマスメディア批判を主眼とする市民運動
役に立たない。

もっと、実効性のある、結果を重視した市民運動へと
変わらなければと思う。


具体的には、この前の連載の回で書いたことだが、
例えば、小泉メディア戦略への
最大の有効策は、大々的な批判キャンペーンの議論を
盛り上げることなどではなく、
徹底して無視をすることだ。

批判すればするほど、結局、小泉のメディア戦略が
話題に上る機会が増えてしまうからだ。



今後、実効性のある社会運動を志向するためには、



強力効果論が前提 → その対策を考えるモデル


ではなく、


限定効果論が前提 → 強力効果状況をもたらす社会心理状況への対策モデル


への転換が必要だ。



前者のモデルのままだと、いつまでも
マスメディアの悪口だけ言ってストレス発散して終わる、
「よいこのメディアリテラシー」状況からの脱皮ができない。



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 総選挙が終わった。結果は予想をはるかに上回る与党の圧勝であった。
いくつか、驚くべき現象があった。
一つは、マス・メディアの影響が、かなり強かったということ。「刺客作戦」をはじめ、ほとんどの争点は与党主導で決められていった。
メディア論では、「強力効果論」というが、現在では、その影響はさほど強くないという「限定効果論」が主流であっただけに驚きであった。
 もう一つは、その勝ち方が、あまりに圧倒的過ぎたということ。
 一点目と関連するが、ある程度の豊かさに到達した社会では、人々の意見や関心が多様化し、大多数の意見が一つにまとまることはそうそう起こりにくくなると言われる。ゆえにマス・メディアの影響力は低下し、むしろ気の合う仲間同士の口コミのほうが影響が大きいと言われてきた。
 もちろん、与党の獲得議席数が、実際の得票率を上回るという小選挙区制の弊害もある。しかしそれを差し引いても、強力な「追い風」が吹いたのは事実だ。一体なぜか。
 これには、社会全体が大いなる閉塞感に見舞われているという要因が考えられる。
 単なる不景気とは違う。戦後を支えてきた、様々な社会システムが役目を終えつつある一方で、今後の日本社会をいかに新たに築き上げるのかという見通しがまったく立っていないという問題だ。
 これは難問である。時間と労力のかかる複雑な問題だ。
 だが人々には、この重要な難問を避けたがる傾向があるようだ。
こうした状況では、往々にして、父性的なイメージや力強さ、単純明快さが人気を集めてしまうのだ。小泉首相には全て当てはまっている。第1次大戦敗戦後のドイツでヒトラーが支持されたのもよく似た構図だった。
 今年は戦後60年でありながら、「新たな戦前」という危惧が叫ばれるのもこの点にある。
 マス・メディアは、インターネットの普及によって、相対的な影響力を低下させつつあると言われてきた。だが、今回明らかになったのは、状況によっては、依然としてかなりの大きな影響力を持ちうるということだ。
 この点を踏まえるならば、マス・メディアには、時と場合によっては、俗情に媚びない頑固な姿勢も必要なのではないか。
 とりわけテレビは商業主義に流れやすいだけに、せめて新聞ぐらいは、流れに逆行しても正論を押し通す頑固さを堅持して欲しい。